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 探偵小説作家 2002/8/7

 江戸川乱歩 3

 昭和3年、34歳の頃、扁桃腺の手術。
 4月に前の下宿屋を売却した、「緑館」を経営する。
 この年、新青年に「陰獣」を発表、評判となる。

 昭和4年、随筆集「悪人志願」刊行。

 昭和5年、「蜘蛛男」ベストセラーとなる。
 作家としての知名度も向上した。

 昭和6年、助手をつとめていたニ山久と口論となり、絶交する。
 平凡社より、はじめての個人全集全13巻の刊行が開始された。
 経営していた下宿の争議事件が起きて、それをきつかけとして、下宿を廃業した。

 昭和7年、2度目の休筆宣言。
 家族と共に関西旅行に旅立つ、末の妹、玉子が死去する、享年16歳という幼さだった。

 昭和8年、「緑館」を売却、さらに転居した。
 このあと、麻布の張ホテルに長期滞在の後、池袋3丁目に転居して、ここが終生の住居
 となつた。

 昭和10年、さまざまなことが重なり、創作を離れた、おもに評論と編纂の日々と呼んで
 よい。

 昭和11年、「怪人二十面相」を少年倶楽部に連載した、これがはじめての少年ものだつた。
 3月、夢野久作が死去。
 数々の追悼の言葉をおくる。

 初の評論集「鬼の言葉」刊行。

 昭和12年、有名な甲賀三郎と木々高太郎の芸術論争が起こる、江戸川乱歩は中立的な立場
 だった。

 昭和13年、探偵小説の雑誌が次々と廃刊していく。
 新青年も戦時色を強めていった、9月、新潮社から「江戸川乱歩選集全10巻」刊行。

 昭和14年、「芋虫」が反戦的とされ作品集から削除。
 16年迄、事実上、全作品が発禁、ついに隠遁を決意する、ときに45歳だった。


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 江戸川乱歩 2
 
 大正11年、ポマード製造所の支配人となるが、閉鎖。
 失業中に「ニ銭銅貨」「一枚の切符」を脱稿。

 馬場孤蝶に推薦を依頼したがかなわず、あらためて「新青年」に投稿した。
 森下雨村が絶賛、掲載を約束されたが、職業としては探偵小説作家はなりたたず。
 弁護士事務所で働く。

 大正12年、小酒井不木の推薦付きでデビューする。
 7月、大阪毎日新聞社広告部に就職。

 大正13年、11月作家専業を決意する、大阪毎日新聞社を退社、ときに30歳。
 
 大正14年、「D坂の殺人事件」発表。
 「心理試験」を小酒井不木に絶賛された、1月、小酒井不木にはじめて会う。
 4月、春日野緑、西田政治、横溝正史らと「探偵趣味の会」発足。

 7月に最初の創作集「心理試験」刊行。
 この年、9月に、父繁男が死去する。
 
 はじめてラジオで講演を放送したのもこの年だつた。
 
 大正15年、長篇3作を同時連載したが、いきづまる。
 「空気男」は中絶、「湖畔亭事件」は完成させたが、「闇に蠢く」は未刊のまま刊行。
 「江戸川乱歩集」収録のさい、3章を加筆して完成させた。
 

 昭和2年、はじめての久筆宣言。
 妻に下宿屋を営ませて、放浪の旅に出る。
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 江戸川乱歩 1

 明治27年10月21日、三重県名張町生まれ、本名平井太郎。
 
 明治30年、父の転職に伴い、名古屋に転居。
 明治35年、菊池幽芳訳「秘中の秘」を母に読んでもらい、探偵小説に興味を覚えたと
 いわれる。

 明治40年、中学時代は器械体操や駆け足が苦手で、半分程病気欠席した。
 黒岩涙香「幽霊塔」に熱中する。
 
 明治41年、 父平井繁男は輸入機械の取次ぎ販売、外国保険代理店、石炭販売に関連し
 た会社を立ち上げた、少年時代もっとも裕福だった。
 そののち父の会社、平井商店は倒産。
 
 明治45年、父は破産した、そののち一家は朝鮮馬山へ移住。
 父は土地開墾事業に従事するも、太郎は単身帰国する。
 早稲田大学予科2年に編入。

 大正2年、母方の祖母つま、と同居。
 早稲田大学大学部政治経済学科に進学。

 大正3年、雑誌「白虹」発行。
 ポー、ドイルなどの英文作品にふれる。
 これらの作品を読むために図書館通いに没頭したという。

 大正4年、21歳の時、海外の探偵小説に触れる「奇譚」を書き、みずから製本に取り組
 んだ。
 初めての探偵小説「火縄銃」を執筆した、「冒険世界」に投稿したが不採用だった。
 この年あたりから様々な職業の変遷がはじまる。
 図書館に勤務、家庭教師など。

 大正5年には大阪の貿易会社、加藤洋行に勤務したが1年で退社。
 
 大正6年にはタイプライターの販売を始める、一方父親は大阪で軸受メタルの製造に従
 事していた。
 この年に放浪癖が芽生えた、のち大阪に移転していた父のもとへ寄寓。
 「火星の運河」執筆。

 大正8年、25歳のとき二人の弟と本郷団子坂に古書店をかまえる、その名も三人書房。
 この時期に「ニ銭銅貨」「一枚の切符」が構想されている、また「D坂の殺人事件」
 の殺人事件の現場もここになる。

 この年11月に村山隆子と結婚した。
 
 三人書房は翌年10月に廃業、そののち大阪時事新報記者となる。
 「ニ銭銅貨」の筋が作られている、筆名は江戸川藍峰だった。

 大正10年2月、長男隆太郎が誕生した。

 

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 甲賀三郎  
  
 明治26年10月5日滋賀県蒲生郡日野町生まれ、本名春日能為。
 
 筆名は郷土の伝説上の勇者、甲賀三郎兼家から採った。
 大正7年東京帝国大学工学部科学科卒業後、和歌山市由良染料株式会社に入社。
 大正9年農商務省臨時窒素研究所技師となる。
 
 大正12年「真珠塔の秘密」が「新趣味」の懸賞募集に一等入選して文壇にデビューした
 出世作は大正13年の「琥珀のパイプ」(新青年)である。
 この作品は理化学的トリックを用いた作品として注目された。
 大正14年「母の秘密」「大下君の推理」v「誘惑」「空家の怪」などを発表。
 大正15年「ニッケルの文鎮」でも化学的トリックを扱った。
  
 いずれも理化学的トリックを使って力作を発表し続けたが甲賀三郎氏の作品はこの理化
 学的トリックに支えられていることが特色ではあるが、これはつまり前述したように化
 学技師であるという経歴によるものだろう、確かに理化学的トリックを用いない優れた
 作品も存在する、たとえば「大下君の推理」「空家の怪」長篇として「池水荘奇譚」な
 どである。
 しかし代表作と見なされたすべては理化学的トリックを中核としている。
 氏は「文芸作品に取り入れられた科学」と題さた文章の中で次のように語っている近代
 新興文学中に隆盛を極めた自然主義文学作品中には科学を取り入れた作品は最も少ない
 我が国の作家の作品中にはほとんど見当たらない。
 こう断定して、「文芸作家として立っていく人は、今後は少なくとも科学に対して正し
 い解釈をもつことに、相当の努力を払うべきである」と語る。
 その氏の発言は価値のあるものだったろう、しかし同時にあまりに専門的知識を持たね
 ば解決できない謎というものに、読者の躊躇いはなかったか。
  
 坂口安吾は「推理小説論」においてこう疑問を呈する。
 「(前略)甲賀三郎の作品も、謎解きをゲームとして争う場合の推理やトリックの確実
 さがない」
 これをうけて権田萬治氏は「理化学的トリックに依存するとトリックは目新しくても一
 般読者が知らない科学知識を前提にしているため、あらかじめ読者の推理を拒絶するこ
 とになって読むほうの推理意欲を半減する結果を招くということは否定しがたいように
 思われる」と補足する。
  
 専門的すぎるということは、ある意味において非日常的であることに繋がる、とすれば
 探偵小説のトリックとして、読者に謎解きを委ねた場合の、氏が作品の中で登場させた
 トリックは、権田氏のいうように「意表をつくものが多い」のは仕方がない事だったか
 も知れない、だがここで思い起こして欲しいのは、現代、驚くほど化学的知識に精通し
 た犯罪者が存在する事実である、現代社会の日常に、これらの犯罪の実行方法にふれる
 我々にとって、当時、生み出された甲賀三郎の作品に触れる時、もしかすると違和感を
 感じないかも知れないと思うのは、論が過ぎるだろうか、たとえば権田萬治氏が、探偵
 小説としてのトリックとして適当だろうかと疑問を投げた、「体温計殺人事件」のトリ
 ックは当時の読者には進歩すぎて難解だったが現代人には無理なく受け止められるとし
 たら、探偵小説の先見性として、甲賀三郎は大いに評価されるべきだと思うのだが。
  
 昭和2年「支倉事件」は氏の代表作と評価されている。
 昭和8年「体温計殺人事件」を発表、同年「情況証拠」などを発表した。
  
 氏の文筆生活で特筆すべきは、昭和10年に「ぷろふぃる」誌上に「探偵小説講話」を一
 年間のあいだ連載して「探偵小説には小説的要素以上に探偵的要素が必要だ」とパズル
 性を重視した立場をとり、文学派と称された木々高太郎と論争を展開したことだろう。
「探偵小説の2要素のうち、探偵的要素は小説的要素よりも重要である」さらに「誰しも
 探偵小説を鑑賞するつもりて聖書を読むものはないだろうし、修行の助けにするつもり
 で探偵小説を読むものはないだろう」と主張したうえで「然らばどれ位の比率であるか
 といことは、数字的に言えるものではない」と結ぶ、この論に対して木々高太郎は「探
 偵小説としての精髄に至れば至ほど、益々芸術となり」と反論した、木々高太郎の論拠
 はいずれまた違う機会に譲るが、権田萬治氏は「本格探偵小説において文学性を軽視し
 大衆に追随して通俗化の道をひたすら歩んだ」その結果として探偵小説も高度の文学性
 が必要とされ、その要素なくして優れたトリックに支えられた作品も、忘れられる運命
 にある、と断言する。
 
 思えば、この論争は今もなお推理小説文壇の命題として、存在する、三島由起夫が推理
 小説に否定的な立場をとったのも、つまりはこの芸術性、文学性という部分に推理小説
 が、どう該当するかと思索したことに他ならない。
 
 甲賀三郎は昭和17年、日本文学報国会事務局総務部長、昭和19年に日本少国民文化協
 会事務局長に就任したのち、昭和20年2月14日に死去した。
 享年53歳だった。                       ____________________________________________________________

 小酒井不木 
 
 本名小酒井光次。
 明治23年、愛知県蟹江町生まれ。別名鳥井零水。
 明治44年、京都三高を経て、東京帝国大学医学部入学。卒業後、大学院で生理学、血清
 学を専攻して、大正6年、東北大学助教授として渡米もはたした。
 大正9年、帰国。
 執筆活動の原点は東北大学助教授を経て、医学雑誌に英米文学に関する紹介の論文を発
 表したことによる。
 大正10年に「東京日日新聞」に連載した随筆「学者気質」のなかで探偵小説を論じたの
 がきっかけとなり、当時の「新青年」編集長森下雨村のフ依頼で『毒及毒殺の研 
 究』『殺人論』『犯罪文学研究』など、エッセイと優れた評論を発表。

 権田萬治氏は「残酷な視線とロマンチシズムの奇妙な交錯の中に、小酒井不木の探偵小
 説の本質が秘められている」と語った。
 
 大正14年、「画家の罪?」を「苦楽」に発表。
 さらに大衆文芸興隆のため「二十一日会」同人となる。
 同人には江戸川乱歩、長谷川伸、土師清二、国枝史郎、正木不如丘などの顔ぶれがあっ
 た。
 大正15年、「人工心臓」(大衆文芸)、「恋愛曲線」(新青年)を発表。
 昭和2年、「疑問の黒枠」を「新青年」に発表。
 昭和4年、「闘争」を「新青年」に発表。

 作風は本格的な謎ときよりも犯罪小説的な色彩が強かった、医学畑の出身らしく科学的
 だったが、一方で解剖学的に人間を観察した為、他方、残酷な視点にみちていた。
「新青年」に最初に執筆したのは「科学的研究と探偵小説」(大正11年2月の増刊号)
 後年になって「超科学的なことを加味した探偵小説は私は好まない」と述べ「現代の小
 説は飽くまで現代の科学に立脚してほしい」と科学の重要性を主張している。

 医学者としての、冷徹なまでの冷静さが、氏の人間を眺める視点であったろう、しかし
 それは残酷さが強調されたとき、生理的不快感を読者に与えることもまた事実だった、
 権田萬治氏は残酷さがグロテスクさを表現するだけの小道具にとどまっている作品とし
 て、いくつかを指摘している。
 実際、大正15年に発表された『肉腫』『血の盃』は残酷小説であり、評論家の平林初
 之輔は氏を「不健全派」と評した、この年の2月号の「新青年」誌上でも平林初之輔は
「探偵小説壇の諸傾向」という評論で小酒井不木の作品の傾向を不健全として批判した、
 だが小酒井不木自身も生理的嫌悪感を与える自身の作風の傾向はわきまえていたらしく
 江戸川乱歩にあてた手紙で正直に吐露している。
  
 江戸川乱歩は小酒井不木の作品を「医学的犯罪小説」とよんだ、著作は医学的知識なし
 には生み出せぬ傑作の数々だった。
 小酒井不木と江戸川乱歩は運命的な出会いと呼んでいいと思う、江戸川乱歩を文壇に押
 し出した作品「二銭銅貨」を森下雨村から紹介されたとき、小酒井不木は大いに驚くと
 同時に強く推賞して、この作品は小酒井不木の絶賛文を添えて発表されている、江戸川
 乱歩の初の創作集「心理試験」の序文も小酒井不木の筆になる。
  
 江戸川乱歩は小酒井不木の訃報を知ったときのことを「鬼の言葉」の中で数遍のエッセ
 イにしるしている、少し長くなるが引用してみよう。
「探偵小説を書き始められたのは、私よりあとでむしろ私がお勧めしたような関係になっ
 ているが、私の処女作を過分に賞めて下すったり、その前から研究物で私達の創作意欲
 を刺激して下すった点で、小酒井氏は私にとって大切な恩人であり先輩であった。その
 意味で小酒井氏の死は、大衆文学、探偵小説界の損失ということを別としても私にとっ
 て限りなき悲しみである」
「小酒井氏は常に、同氏の探偵小説を余戯だといっていられ、同氏の心持としては本当で
 もあったようであるが、私の考えでは、余戯というよりは、小酒井氏という人は、一つ
 の頭を、一方は科学、一方は文芸に使い分けて、そのいずれにも優れた才能を示し得る
 ような、少なくとも二人分以上の精神力の所有者であったと思うのである」

 探偵小説の文学性あるいは芸術性に関する論争においては「探偵小説は芸術である」と
 明確な立場をとった。
 だが氏自身は自己の作品を犯罪探偵を取り扱った読み物として割り切っていた。  
 
「(小酒井不木)氏はいわゆる純文学にたいしてまったくコンプレックスを持っていない
 その意味で木々高太郎が劣等感から探偵小説芸術論を主張したのとは対照的であった」
 と権田氏は断定する。
 
 乱作すべきではないという批判に対しても「どうせ本統(原文まま)の文士ではないか
 ら、碌なものは出来ますまい。しかし多数に書く中には、或いは一つか二つ位、永久に
 遺るものが出来るかと、それを楽しみにしています」これは高田義一郎医学博士が「犯
 罪学雑誌」の追悼号で述べている小酒井不木の言葉である。
 この乱作の指摘についても江戸川乱歩は前述の「鬼の言葉」の文中で次のように擁護し
 ている。
「この多作ということは、ある場合小酒井氏を難ずる口実となったようだが、別の方角か
 ら考えて見ると、小酒井氏にこの元気があったればこそ、探偵小説の勢力を広く、全読
 物界におし広めることができたともいえるのである」
  
 鳥井零水名義で、翻訳も多数取り組み、評論にも大きな足跡を残し、すぐれた探偵小説
 の理論家、実作者で、森下雨村とならぶ創作探偵小説の育ての親である。
 
 40歳の若さで急性肺炎のため、この世を去った。
 昭和4年4月1日のことである。
 生前「3日生きたい、本当は3年生きたい」と親友に語った小酒井不木の言葉に無念さが
 感じられる。

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 黒岩涙香
 
 本名は黒岩周六、文久2年9月28日、高知県安芸郡川北村生まれ。
 
 明治14年慶応義塾入学、しかしまもなく中退。
 自由民権運動に関わり、黒岩大の名で盛んに演説を行っていた。
 明治15年、同盟改進新聞主筆。
 明治18年、日本たいむす主筆、だが長期発行停止処分となり廃刊。
 明治19年、絵入自由新聞主筆。

 一般的に彼の名が知られているのは「岩窟王」「ああ無情」の訳者としてではないか、
 探偵小説の元祖として有名ではあるが、彼の仕事の中にはSFの分野の作品もある、ウエ
 ルズ原作の「今より300年後の社会」「今の世の奇蹟」さらにSFミステリーと呼ぶべき
 ものにオッペンハイムの「黒い箱」がある。
 翻案ものの最初は、明治21年、今日新聞に連載した「法廷の美人」この作品はイギリス
 のヒュー・コヌウェイ「暗い日々」を訳したもの。

 彼はもともと論説記者であったが、当時の新聞小説に魅力を感じていなかった理由から
 海外の作品を熟読して自ら訳し筆を起こしたと言われている。
 都新聞で探偵小説を連続発表して読者を急増させたが、同社が買収されると明治25年萬
 報社を起こして萬朝報を創刊した、明治25年、コリンズの「月長石」を邦題「我不知」
 として萬朝報、都新聞に発表、これらの作品は好評となり、丸亭素人、南陽外史、菊亭
 笑庸などの作家に影響を与えた。

 余談になるが涙香は相当に性格の激しい気質だったらしく、実兄と実姉は同窓の内村鑑
 三に基督教を諭し感化すべく頼んだのだといわれている、こうして明治30年内村鑑三は
 朝報社に入社した、しかしながら遂に基督教信者になることはなかったという。
 また彼は驚いたことに自分が社長をつとめる萬朝報に次のような前代未聞の広告を出し
 た。

 広告
 私し共両人夫妻の関係を継続し難き事情相生じ候に付共議の上互いに離縁致候此段 
 辱知諸君に謹告仕候也

                         黒岩周六
                         右妻たりしのぶ子こと
                         通称真砂子
 
 離婚を世間に宣言した驚くべきことだ、ただ離婚の原因は様々に取りざたされたようで
 どうやら涙香の放蕩と女性関係に原因がありそうだが、他方、真砂子の不品行について
 も離婚の因の一端もありそうなのだ、明治41年発行の「東京エコー」を引用してみる。
〔彼女は非常に酒が好きで、派手好きで、勝負事が好きで、男が好きだといふのだから・
 ・・云々〕
 萬朝報の書生達とも、あるいは当時涙香が贔屓にしていた力士とも男女の関係があった
 と伝えられている程だ。
 
 探偵小説を翻訳したのは明治21年から26年ごろまでだが、他の作家の追随を許さず長
 い涙香時代を確立した、作品は長短あわせて約100編〔伊藤秀雄氏の説では99編〕が数
 えられている。
 
 氏の自らの創作として、明治22年「無惨」を小説館から刊行。
 明治26年「白髪鬼」〔マリー・コレリ原作〕を萬朝報に連載。
 明治32年に萬朝報に「幽霊塔」を連載、これはウイリアムスン「灰色の女」を原作とし
 た。
 大正7年に渡欧し、翌年帰国。
 大正9年、10月6日、肺腫瘍のため死去。
 享年59歳。
 
 神奈川県鶴見、曹洞宗大本山総持寺で黒岩院周六涙香忠天居士として永遠の眠りについ
 ている。
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