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         夢野久作の生涯 12 2002/12/6

 大正5年から6年にかけて、托鉢僧として京都から大和路を放浪している、この思い出を久作はのちに龍丸に語っている、それはこの放浪の際に使用した陣笠についての思い入れであった。
 龍丸の言葉を聞こう。
 「(略)陣笠を二つ用意していまして、私に一つ渡しながら、だから、俺が六十、貴様が三十になったら、その記念に、二人でこの笠を冠って大和路を歩こう、そう約束して置こうと申しました、しかし、彼は行年48歳、満で47歳で祖父の後始末がついたとき死去しましたので、彼の陣笠は彼の棺に入れて彼の遺骸と共に火葬しました」
(杉山龍丸「わが父・夢野久作)
 鶴見俊輔氏は語る、
 「放浪の体験が、いかに彼にとってなつかしいものであったか、いかに自己形成の岩床となっていたか、どれほどそれを彼は、息子につたえたいと思っていたかがわかる」
   
 大正6年、28歳の時、還俗した。
 杉山直樹は泰道という僧名をのこしたまま、杉山家を継ぐこととなる、そして福岡の香椎(現福岡市東区)に茂丸が作った、杉山農園の経営にあたった。
 探偵小説作家、夢野久作は生涯をこの地で暮らすことになる。

         夢野久作の生涯 11 2002/11/24

 「久作の青春の苦悩はきわめて複雑な構造を持っていた」(山本巌氏) 
 その構造は、ホトリとの別離、茂丸との進むべき人生に対する違いの軋轢、継母との葛藤、そして明治という国家主義から、自由を謳歌せんとする大正時代の時流に遅れまいとする焦燥の思いであったかも知れない。
 そしておそらく、久作は父母の愛、円満なる家庭生活に飢えていた。
 
 ここで夢野久作についてどうしても触れておかねばならないことがある、それは謡曲と能との関わりあいである、彼が幼い頃から祖父の影響下で過ごしたことは前に述べた、この時代に能楽の影響もうけて、黒田藩喜多流師範梅津只圓(うめず しえん)に入門、厳しい稽古をつけられたという。
 そうして、後年、喜多流の能の教授となった。
 謡曲と能は祖父の、ほぼ強制だったといわれている。

         夢野久作の生涯 10 2002/11/18

 大正4年、26歳、東京文京区本郷の喜福寺にて剃髪、禅僧として出家する。  
 久作の放浪は家庭の事情からの厭世感だけではなかったろう、強烈な存在感を示す父親に対する屈服の思いが、久作を放浪へと導いたのではないだろうか、父の意図で文学への道を断念せざるを得なかった敗北感が、その当時の久作の行動に現れているような気がする。
 だがはたして、久作の精神と茂丸の精神は完全に反目していたか、言葉を変えて言えば敵対していたか、答は、否、のような気がする、久作の心に父を疎ましく思うものはあったかも知れない、憎しみの気持ちも根ざしていただろう、だがそれは一般的な父と息子の、感情の交錯に過ぎなかったとは言えないだろうか。
 
 茂丸はともかくとして、久作の感情の中のある部分では、茂丸を認め、尊敬していた。
 同時に、身を置く世界は異なっても父を超えんとする意志があった。
 山本厳氏の指摘が興味深い。

 「(略)久作は思想的な部分も含めて、茂丸から多くのものを受け継いでいる。茂丸に対する久作の生涯の態度をひと口で表現するとすれば畏敬だと言ってよいだろう。ただし久作は茂丸的な生き方を拒否した。リアリズムが支配する政治の世界で、とりわけてリアルに生きた茂丸、その最も〈夢野久作〉的でない生き方に対し、俺は〈夢野久作〉的に生きる、とひそかに宣言してみせたのではないか」
 
 そう考えると、夢野久作のような小説だと茂丸が揶揄したとき、あえて茫洋とした意味をもつ〈夢野久作〉を筆名にしたことが自然の道理として理解できるような気がする。
 茂丸の揶揄を正面から受け止め、文学の道を極めたいと願ったのではなかったか。
〈夢野久作〉を筆名にすることは、父茂丸の精神に対する反撃の狼煙だったような気がする。

         夢野久作の生涯 9 2002/11/9

 明治43年の日記の記述に、乱れる心情がある。 
 「私は死神のように私を離さない悲しい思いにとらえられている」(1月16日)   
 「ここ数日、私は将来の選択について深い苦悩に陥っている」(1月20日) 
 茂丸はホトリと離縁後、後妻を得ていた、継母の幾茂は杉山家の長男としての権利を久作から奪い、茂丸とのあいだに生まれた実子にそれを与えんと執着したらしい。

 山本厳氏は「あるいは茂丸の心の中にも、久作は自分の後継者としてふさわしくない、との判断があったのかもしれない」と語っている。
 真偽はともあれ、大正3年、25歳のとき、東京深川の工場地帯、貧民街などで放浪の生活を送っているが、久作自身はこのときの体験を書き留めてはいない、だが息子の龍丸にはこのときの生活ぶりを語っていたようだ。 

 龍丸によれば久作は衝撃的な経験をしている。 
 「ある日、隅田川の土手で昼飯を食べていたら、向こう岸でも弁当を食べている男がいた。すると草むらの中からハンマーを持った男が背後からしのび寄り、弁当を食べる男の頭にたたきつけた。ハンマーの男はグッタリしたその男を川に蹴落とした。新聞にはその事件は載らなかった」 杉山龍丸「わが父・夢野久作」
 
 夢野久作の有名な逸話である。  

         夢野久作の生涯 8 2002/10/24

 茂丸は家族を置き去りにして、東京で別の女性と暮らしていた、そのために久作一家は困窮をきわめる、久作は単身上京して父親に抗議する。
 茂丸は家族を呼び寄せることを約束した、同時に久作には中学を卒業して、そのあと軍隊にはいることも約束させたのである。 
 
 明治41年、約束通り、近衛歩兵第一連隊に入隊、茂丸はあくまでも、息子久作が頑強な青年となることを望んでいた。 
 明治42年、退役。 
 明治44年、慶応大学文学部入学。 
 ようやく久作は、希望する文学の道に踏み出したかに見えた、しかし、2年足らずで中退、理由は定かではないが、家庭内の廃嫡問題というのが有力だ。 

         夢野久作の生涯 7 2002/10/17

 杉山茂丸を語るには、明治維新から西南戦争、そして自由民権運動の国家的な大きな波を検証しなければならないが、思想、信条はともかくとして、彼は「天下の為」家庭を顧みることなく無軌道な生活に没頭した、その犠牲になったのが彼の両親であり、妻ホトリであり、息子久作だったのである。
 そうではあっても、久作にとって、父茂丸は彼が乗り越えねばならなかった人生の、最初の試練に思える、しかし久作の茂丸に託した思いも、また複雑であったろう。
 品川能正氏はこう語る。  
 「久作の伝記的な面を調べていくうちに、奇妙に「ドグラ・マグラ」と符合する点に気がついた。(中略)
 夢野久作という作家は、杉山茂丸という父親なくしてはありえなかった。 
 「ドグラ・マグラ」は父探し、母探し物語である」
 (中略)久作の妻クラは、久作が茂丸から仕送りをもらうことを激しくなじる。しかし、久作は仕送りをもらうことで、子供の頃、得ることのできなかった父親との愛を確かめたかったのではないか」  

         夢野久作の生涯 6 2002/10/10

 家族の中で茂丸と距離をおいていたのは久作だけではなかった、妹の石井多美子は「兄・夢野久作」と題した回顧の中で次のように述べている。 
 「父は滅多に家の中に姿がなかった。いる時は家中がざわめいて、書生さんや女中たちは右往左往用があり、お客様は引きもきらず、私どもの自由行動はできなくなってしまうので、あまり嬉しくはなかった」 
 
 茂丸は16歳のとき、自分の父親に向かって、こう言い放ったという。
 「日本の開国は明らか立遅れであります(中略)この日本を救い、この東洋を白禍の惨毒から救い出すためには、杉山家の一軒ぐらい潰すのは当然の代償と覚悟しなければなりません。私は天下の為にこの家を潰す積もりですから(略)」 

 明治18年、テロリストとして茂丸は上京した、初代内閣総理大臣伊藤博文を刃にかけんと欲したのである、伊藤は茂丸と面会した。
 鶴見俊輔氏はこう驚愕する。 
 「総理大臣に、無名の青年がひとりきりで会うなどということは、今の日本ではほとんど信じがたいが、そのようなことができたのが明治初期であり(略)」 
 ともかく茂丸は伊藤博文に面会した、伊藤の罪状を詰問すると伊藤はひとつひとつ証拠をしめして答えたという。 
 結局、暗殺は果たせなかったけれど、その後も、伊藤博文、山県有朋、桂太郎、児玉源太郎、小林寿太郎などの人物のあいだを政治的なつなぎ役として働いた。  

         夢野久作の生涯 5 2002/10/3

 祖父の三郎平は久作を「神童」に仕立てた、実際、小学校入学前、ふりがなのない新聞を読んだという、だが茂丸には不満だった、久作が学究、とりわけ文学の道を歩もうとすることに嫌悪感を抱いていたふしがある、反発を感じていても、当時、すでに、強烈な存在感があり、家の中で強大になっていた「国士」としての父茂丸には久作は反抗できなかったと推察される。 

 久作は「父・杉山茂丸を語る」という文で、茂丸をこう回顧している。 
 「(中略)私は文学で立ちたいと思います、と答えた時の父の不愉快そうな顔を今でも忘れない(中略)そんなら美術家になります、と言ったらイヨイヨ不愉快になって私の顔をジイッと見たので、(中略)そんなら身体を丈夫にするために農業をやります、と言ったら父の顔が忽ち解けて、見る見るニコニコ笑い出したので、私はホッとしたものである、(中略)日本が亡びたら文学も絵もあったものでない、と言ったような事を長々と訓戒しくれた。私は父の熱誠に圧服されながらも、生涯の楽しみを奪われた悲しさに涙をポトポト落としながら聞いていた」

 国事の為に奔走する「国士」と芸術家とでは相反するのは当然のことであったろう、茂丸には久作が「軟弱者」に思えたのではないだろうか。  
 

         夢野久作の生涯 4 2002/9/26

 夢野久作の母、杉山ホトリについて述べてみたい。
 以下は西原和海氏の「夢野久作の生涯」から抜粋したものである、補足しておくと西原氏は杉山龍丸氏と共にホトリが再婚後にもうけた娘、小松ミヨさんからホトリの晩年の様子を知らされている。  
 ホトリは杉山家を追われたのち福岡日日新聞記者、高橋群稲(ともね)氏と再婚、3人の子に恵まれた、群稲(ともね)氏は福岡日日新聞を退職ののち、明治31年に39歳の若さで夭折、夫を失ったホトリは夫の最後の勤め先であった炭坑経営者の安川家で寮母の仕事に就いた。

 ホトリの長男、誠太郎氏は同じ系列の豊国炭坑に勤め、ホトリは昭和3年12月23日に、息子の社宅で生涯を終えた。  
 西原和海氏は語る。 
 「久作はその作品の中で、母なるものを殆ど語らないことによって、逆に雄弁に語ろうとしているように思われる。
 久作その人をもっとよく知るために、私たちは彼女の生の軌跡を一層明らかにしていかねばなるまい。
 彼女の写真一枚すら残されていないとは、さびしいこと限りがない」 
 
 異論の余地はない。

         夢野久作の生涯 3 2002/9/19

 不在の父親の為に、一家は厳しい生活を強いられた。
「幼年時代から十代にかけての一家の惨澹たる貧窮」(堀切直人氏)も久作の性格に暗い影をおとした、別離のあとも、久作はホトリと勝手に会うことを禁じられていた、ホトリが危篤におちいった時ですら、茂丸の許しを得なければ会えずにいた。 

 母、ホトリとの最後の日、見舞いに来た久作は母の枕元で謡曲を謡い始めた。そして・・・。
「ふと高橋ホトリは眼をあけて、あたりを見廻すように眼球を動かしました。その様子を見た夢野久作は(略)「お母さん、直樹ですよ!直樹がお傍に来ていますよ!分かりますな!お母さん!」と呼びました。すると、ホトリはかすかにほほえんで、うなずいたということです」杉山龍丸「西の幻想作家」
  
 昭和3年12月23日の日記に歌を書き留めている。

        逢ふて又別れし夢の路の霜          
              あかつきとほき名残なりけり
 
 そののち、久作は母の訃報を受け取る、通夜と葬儀には参列していない。

 山本厳氏は語る。「あかつきとほき、とは、自分の人生に宿る暗さが「母の不在」によるものだという、久作のひそかな、深い嘆きではなかろうか」 
 ホトリの生涯は、夢野久作の人生を語る時、大いなる「謎」だ。彼女の写真すら現存していないといわれ、久作も実母について多くを書き残していない、さらに彼は身内のものに対しても母を話題にしなかったと言う、そうであるからこそ、筆者は、久作の母にたいする、とりわけ強い哀惜の念を感じる。 
 それでも母の思い出の印象を、龍丸(杉山龍丸、久作の長男、昭和62年逝去)には語っている。

 「その人は、若く,美しい人で、大きなつややかな丸髷を結うていて、温かい背であった。そして、襟足の美しい人であった」
 杉山龍丸「わが父・夢野久作」 

         夢野久作の生涯 2 2002/9/12

 本名、杉山直樹、のち改名して泰道。 
 筆名の由来を示しておきたい、彼は書き上げるごとに周囲の人々に批評を求めていた、「あやかしの鼓」を、父、茂丸に読ませ感想を求めた、一読した茂丸は「これは夢野久作が書いたような、わけのわからぬ小説」と酷評した。
 発言の中の「夢野久作」という言葉は福岡地方の方言で、いささか浮き世離れしていて、夢でも見ているような茫洋とした人を指す、このとき作家、夢野久作が誕生したのだった。 
 
 明治22年1月4日、父・杉山茂丸と母・ホトリの長男として福岡市小姓町に生まれる。 
 前述のように、実母が離縁され、祖父の三郎平と祖母友子に育てられた。 
 祖父は久作が2歳の頃、既に四書五経が読める英才教育をした、その素読の褒美が変わっている、なんと喫煙だった、そのために3歳のとき、久作はすでにニコチン中毒になったと伝えられている。 

 父親の茂丸は家庭を全く顧みなかった、実母のホトリが離縁された理由は定かではない、一説によれば茂丸が留守の間に気性が激しい友子に追い出されたのではないかとある。 
 
 ホトリは漢学の素地があったために舅の三郎平に可愛がられた、それが姑の嫉妬をかい一方的な離縁になったもの、というのが定説だ、後年、久作が別離したホトリを訪れて、なにゆえ家を出たのかと尋ねた時、彼女は「あんたのおばあさんに聞きんしゃい」と答えたと言われているから、おそらく事実だろう。 

 これは筆者の推察に過ぎないけれど、茂丸が家の外に出て、己の信念に従って行動できたのは彼が自己の信念と理想に燃えた憂国の志士であったことは否定できないが、ある意味ではホトリを信頼して家を任せたからではなかったか。

 茂丸とホトリはきわめて円満な夫婦仲だったという。 


         夢野久作の生涯 1 2002/9/2 

 松本健一氏は「どぐら奇譚」で夢野久作像をこう語っている。
 「夢野久作という作家のもつ特異な精神風土を感じ取るのだ」そして氏はそれを「日本モダニズムの深層」と呼んだ。 
 変わった評では、なだいなだ氏が語る夢野久作評が面白い。
 「いろいろレッテルをはって、決めつけることが無理なので、夢野久作は夢野久作だと素直に結論づけるしかないのである。怪物と呼ぶが、それほど恐ろしい怪物ではなく、こころ優しい怪物であり・・・」 
 夢野久作は夢野久作であるということが、まさしく唯一の真実に思われる。 他方、権田萬治氏は夢野久作の作品の底流に流れる思いをこう述べている。
 「この世の悲しい宿命の下で滅びていかねばならない人間の弱々しく悲しい渡り鳥のような叫び声が流れている」
 
 夢野久作の父、杉山茂丸は右翼の国士でもあり、香港、福岡、東京のあいだを貿易事業で飛び歩き、政治的には国内外の運動に奔走、また女性関係も複雑で、家にいることは少なかったという、幼年期、母・ホトリは茂丸の両親より家風にあわずとして離別させられる、そのため久作は福岡市住吉町の祖父母の家で育った、乳母の名前を友田ハルという。

 権田萬治氏が語る、宿命の波に押し流される人間の悲劇を感じ取る感性は、このような幼い頃の孤独感から影響したものだとは言えないだろうか。       



        夢野久作を語る 2002/7/27
知人の話である。
もう40年前のことだ、当時、彼は苦学生だった、大学の講議以外、ほとんどの時間は学費と生活費の捻出の為に働いていた日々、当然貧乏だった。
その日、休講になり、仕事までの時間を大学近くの古本街を歩いた、自由に使える金など持ちあわせていない彼にとって、古書店を覗き歩くことが唯一無二の楽しみだった。
その日は雨になった、傘を持たぬ彼は古書店の軒先きに避難した、驟雨は止む気配がない、ふと振り返ると硝子棚の中の一冊の古書が視線に入った、かねてより欲しいと思っていた古書だった、給金が入ったばかりで懐には幾許かのまとまった金があった、高価な古書ではあったが、その気になれば無理ではなかった、ただし次の給金まで水を飲んで暮らすことになるだろう。
知人はしばらく考えた、雨音が急かすように耳もとで響いた、やがて知人は意を決して、どしゃぶりになってきた雨の中を走り出した。
「そのとき、悔しさと情けなさで、泣きました、その涙は雨が隠してくれましたよ」
知人は遠くを眺めるように、眼を細めてそう言った。
「今ならどうでしょう、その本は手に入れることができるでしょうか」
「いえいえとんでもない、どう逆立ちしても得ることができない、私には高価すぎる価格になってしまいました、でも欲するものが手に入らぬ時代、それが青春なのではないでしょうか」
知人は笑顔で言った。
「ドグラ・マグラ」の初版本をめぐる話である。

        夢野久作を語る 2002/6/20

「ある日、隅田川の土手で昼飯を食べていたら、向こう岸でも弁当を食べている男がいた。すると草むらの中からハンマーを持った男が背後からしのび寄り、弁当を食べる男の頭にたたきつけた。ハンマーの男はグッタリしたその男を川に蹴落とした。新聞にはその事件は載らなかった」 杉山龍丸「わが父・夢野久作」
 夢野久作の有名な逸話である。  

        夢野久作を語る 2002/6/14

夢野久作の父杉山茂丸が、国家主義者であったことは、誰もが知っている。
つまり右翼である。
彼は伊藤博文の暗殺も企てているし、明治維新後、政治の表舞台と闇の世界で、暗躍したとされている。
その彼の発言を注意深くみてみると、国家の為に忠誠を尽くす帝国主義的な一面と同時に、彼の思想は決して偏狭なものではなく、世界観といったものに満ちているような気がしてならない、そしてヒューマニズムに溢れたものだと解釈できよう。
彼は言う。
「我国の軍隊が平和秩序専門の事業をしてどこにその威信が汚れるか、防備以上の力を備え(略)侵略にまで疑わるる行動をしたら、どこに威信が保てるか」
彼の言葉が、どれほど正しく、この国の行く末を的確に捉えていたか、すでに歴史は証明している。
日本は戦後の処理に、未だに苦しみ、歴史のまえに呆然とたちすくみ、狼狽している。
杉山茂丸の一喝が聞こえてきそうである。

         夢野久作を語る 2002/5/26

親として我が子を愛するのは当然のことだ、だからあらためてここで書き記すことなどないのかも知れないそれでも、書かずにはいられない。
夢野久作が子供達と接していた逸話である。
邪推にすぎないけれど、夢野久作はその少年時代、あたたかな家庭に憧れていたのではないか。
父と相克しながら、同じぐらいの尊敬の念を抱き、さらに家長であり続けなければならぬ運命にとまどいながら、家庭を守るとき平凡な父親であろうとした。
一国の行く末を左右する、偉大な政治家ではなく、あるいは高名な文学者ではなく、無邪気に子供と遊ぶ、平凡な父親。
三人の子供達に民話を話し聞かせ、共に風呂に入り、父親が指揮者になり、子供達が洗面器や風呂のふたを叩く、杉山家の「風呂の音楽会」
洗面器がこわれます、と妻が叱ると素裸のまま直立して謝った父親。
杉山茂丸という父親であれば、決してそうしなかったであろう行動、二人の父親に優劣をつける基準もないけれど、孤独な少年時代、母ホトリとの別離を経験した直樹少年にとって、長い間、心の中で抱き続けた理想の親子の関係だったのではないだろうか。


         夢野久作を語る 2002/5/16

その日。昭和11年3月31日、父杉山茂丸が残した、女性関係を含めた俗世的後始末を依頼していたアサヒビール重役の林博氏と会うために、夢野久作は朝から散髪に行き、朝風呂に入り、下帯から下着まで真新しい木綿のものに着替えていた。
そして杉山家の正式の紋、十二日足のついた紋服を着て林博氏に会った。
林氏から金銭に関する報告書を受け取って「今日は、良い日で、あは、は、は、はー」と両手を高く上げてそのまま、後方へ倒れ、帰らぬ人となった。
紋服のまま座敷に安置され、二日後、クラと子供達と言葉のない対面をした。
その日の朝から、死の瞬間に至るその行動は己の運命を知るかのようだった、


          夢野久作を語る 2002/4/26

夢野久作が、亡き父、杉山茂丸の負の遺産の後始末のために上京したとき、2・26事件に遭遇した、この2・26事件を契機として日本は急激に不幸な時代へと傾いていく、この事件が第二次世界大戦の破局の第一歩になったといってよい、そして夢野久作は敗戦を経験しなかった、2・26事件ののち、3月31日に、急逝したのである。


          夢野久作を語る 2002/4/23

「久能が自分の気持ちソックリに作ったというこの鼓の死んだような音色・・・その力なさ・・・陰気さの底には永劫に消えることのない怨みの響きが残っている。人間の力では打ち消す事の出来ない悲しい執念の情調がこもっている。それは恐らく久能自身にも心づかなかったであろう。無限地獄の底に堕ちるながら死のうとして死に得ぬ魂魄のなげき・・・八方奈落の崖をさまゆいつつ浮かぼうとして浮かび得ぬ幽鬼の声・・・これが恋に破れたものの呪いの声でなくて何であろう。久能の無念の響きでなくて何であろう。」「あやかしの鼓」

 大正15年1月、「新青年」編集長であった森下雨村は創作を募集した、このとき山本禾太郎の作品と共に二等に入選したのが「あやかしの鼓」だった。

 前述の文にふれるとき、筆者はここに夢野久作としてではなく「杉山直樹」の苦悩を見る思いがする、主人公のひとりである「久能」を「杉山直樹」と置き換えると、やすらぎがあったとは言いがたい直樹少年の心のうちが吐露されているような気がしてならない。
 人の力ではどうにも出来ぬ「運命」を託して夢野久作は鼓をうった、「運命」にたいする真摯な夢野久作の姿が、鼓の音色となって、我々の心に響くのかも知れない。


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